ケーキをペロペロする奴は大体友達

ケーキのフィルムをペロペロする奴は大体友達

ノーインターネットノーライフ 言うてますけど

人類はみんなMである。

僕をいじめないでください。カメノセタロウです。

 

いつも隙あらば主張していることですが、人類はみんなMの性質を持っている。つまり、マゾヒズムである。特に、肉体的、精神的、経済的なマゾである。

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はい、私はMです。

 

 「いやいや、俺はMちゃうし」とおっしゃる方もいらっしゃられるでしょうが、以下の言葉に同意をする部分はないだろうか。もし、これらの言葉に頷く部分があるとするなら、Mの素質があるはずです。

  • 努力は報われる。
  • 苦労は人を成長させる。
  • 成果を得るために努力や犠牲はつきものである。

これらの言葉には、そこはかとなくマゾの香りが漂っております。
何らかの見返りを得るために、精神的・肉体的・経済的な負荷を肯定・合理化し、受け入れる。マゾの香りがするだろう?ほぉら。マゾへと続く道が見える気がするだろう?Say yes.

もし、あなたが全くMの資質を有していなければ、以下の言葉の方がしっくりくるはずである。

  • 努力しなくても報われる。
  • 苦労しなくても人は成長する。
  • 成果を得るために努力や犠牲は必要ない。

ほら、このような言葉よりは先程のマゾチックな言葉の方がストンと胸に染み入る蝉の声だろ?説得力が違うだろ?そう、それはあなた自身が何らかの苦労や負荷を肯定的に受け入れる要素があるからなのである。つまり、マゾ。

人類の歴史を振り返れば、人類のマゾヒズム的性質を思い知ることができる。例えば、各地に伝わる人身御供の昔話などもそうだろう。橋を造るために人を川に沈めた、なんて話しは各地に残っているし、旧約聖書にも人を神の生贄に捧げたと読める個所もある。このような犠牲や負担を受け入れる人類のマゾチック性癖はなぜ生まれたのだろうか、皆様はどうお考えだろうか。普通に考えるならば、犠牲なんてやだぴょーん、少しでも楽して稼ぐ方がいいもーんと思うのが正常だと思うのだが。

カメノセタロウ的解釈

昔々、おばあさんは川へ洗濯へ、おじいさんは山へ芝刈りに行くよりはるか昔。まだ、人類が文明的な生活をなしていなかった頃。そのころは今よりもさらに不条理な生活をしておったはずです。人間同士の争いも公平には裁かれず、自然も人類に対し過酷で、些細な天候不順や病気が人の命を易々と奪い去っていったような時代。

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そのような時代、人類はその不条理に直面した時に受けるストレスを軽減するためにマゾヒズムに通じるような『負荷を肯定・合理化して受け入れる』性質を獲得したのではなかろうか。「このような苦難に遭うのは、私たちが神に対して怠けていたからだ。神に対し、誠実であれば神は恵みを垂れてくださるだろう」などと、何らかの理論を編み出し、自分たちが受けている苦難に理由付けをして受け入れる。知能を得た人類だからこそ、不条理をそのまま受け入れることができなかったのかもしれない。

不条理を何ら合理化せずに受け入れることができなければ、ストレス過多で精神的肉体的な負荷が強すぎたのかもしれない。合理化せずに受け入れるというのは「え、なんで?なんでなん。なんで雨降らへんの?え、なんで?なにしたら雨降ってくれるん?あ、『なにかしたら』って考えてる時点でM要素あるわ、あかんわ。え、じゃあなんで雨降らへんの?お米育たへんやん!雨降らさんかったらお供えもんしたらんぞ!」と言った感じになるのだろうか。これはこれで、その後に雨が降れば、『雨が降らなかった』と言う負荷・負担も含めて「良かった良かった」と合理化されそうな気もする。つまり、負荷を受け入れるM要素の育成に役立ってしまう気がする。

 

私が不思議に思うのは、このようなM気質と言うか、負荷・負担を負荷・負担と認識しつつ甘んじて受け入れ、何らかの成果の前提と位置付ける性質と言うものが、人類以外にはあまり見受けられないように感じることである。犬などは、その気質があるように感じることもあるが、ワンちゃんにインタビューしたことがないので、そこのところはまだ不明である。M的な性質は高度な知能を有する者にしか存在し得ないのだろうか。良かった、Mな人は高度な知能を有する人なんだね!

 

そんなことを考えながら、いずれ「人類はみんなSである」という記事を書こうと思っているカメノセタロウでした。