『田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ』を愛でる
どうも、みつまりです。
突然ですが
『田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ』という一文
ご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?
もしご存知ない方がいらっしゃったら
「田原俊彦 鉄アレイ」で検索してみてください
関連記事がめちゃくちゃ出てきます。
上の検索結果の画像からお分かりいただける通り、4130件ヒットという、インターネット上では多分なかなか一応割と恐らくそこそこ有名な一文でして
パソコン通信にはじまり、インターネット創生期からネットの大海原を彷徨っている私といたしましては『田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ』というのは、インターネット史に残る「無形文化財」であると申し上げても過言では無いかも知れないしそれ程でもないかも知れない、くらいの名言だと思っています。
供述が意味不明すぎる感じですか、大丈夫ですか、ここでブラウザバックするかた、ここまで読んでくださって有難うございました。コメント欄へ感想をご投稿される際には、なるべく悪意は少なめでお願いします。
ここまで読んでいただいて「続きを読んでやってもいいけど、大分何言ってるかわからないですね。」という方のために少しでも興味を持っていただきたくこの一文の歴史をご説明しようかと思ったのですが、歴史をいざ調べてみたところ私が読んでも想像以上に意味が分からないうえに面白くもありませんでした。
気になる方は下のリンク先をご覧ください。
「鉄アレイ」「殴る/殴り続ける」「死んでしまう」の元ネタについて(2002年~)
2003年4月16日が初出のようです。
とにかく、今となってはいつどこでどういうタイミングで、何で見たのかさっぱり思い出せないし誰が考えた言葉なのかすらも分らないのですが、この一文にインターネットの未来そして活字と日本人の無限の可能性を感じたこの気持ちは何年経っても色褪せることなく私の胸中に存在しています。
今回『田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ』に対する思いをブログの記事にするにあたり、一見どうという事もないこの一文のどこにそんなにも面白さを感じているのか、私なりに真剣に考えてみた結果を以下に記しますのでご査収ください。
そもそもなぜ『田原俊彦』なのか
たとえば、黒柳徹子とかは死ななそうですし、田原総一朗だと論破されそうだからですかね、わかりませんけど。
ちょうど良い感じに殴られてくれて、ほど良く死にそうな感じが「田原俊彦」の「田原俊彦」たるゆえんなのだと思います、知らんけど。
『田原俊彦』
教師びんびん物語めっちゃ見てました。
「鉄アレイ・殴・死」こんなに暴力的な言葉の羅列にもかかわらず、枕詞に『田原俊彦』が入るだけで全体が急にまろやかになるこの感じ。
少しカッコ良くて少しダサくて少し調子に乗っちゃっている感じの、何の罪も無いのに若干イラッとする何とも形容しがたい絶妙な人選。
抜きん出たセンスを感じずにはいられません。
「鉄アレイで殴り続けると死ぬ」の世界観
この人を「鉄アレイで殴り続ける」
いやいやいや、何があったか知らんけどもあなた、鉄アレイでっていうのはさすがにそれはちょっと致死率高すぎでしょ。そんな事するって貴方どんだけトシちゃんに、ええ?いやいや・・ほんまグーとかパーとかで殴るならまだアレやけど鉄アレイってよっぽどやで・・・
と思わずにはいられない尋常ならざる暴挙。
からの
「と、死ぬ」
いやいやいやいやいやいや、うん、でしょうねそうでしょうね、死ぬでしょうね!だって鉄アレイはただの鉄の塊で、言っとくけどトシちゃんは多分だけど想像以上に柔らかいからね、しかも一回じゃなくてエンドレスに殴ったらそれはもう死ぬよね確実に。
と、共感せずにはいられない突然訪れる常識。
例えば
「田原俊彦を鉄アレイで殴り殺す」だと、ただの脅迫文ですし
「田原俊彦を鉄アレイで殴り殺せ」だと、暴徒と化した近藤真彦もしくは野村義男ファンの人達みたいですし
「田原俊彦を包丁で刺し殺す」は、普通に怖すぎる
「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けたら死んだ」だと、ただの報告だし、いや実際殴られてないし死んでないし
『田原俊彦』
33thシングル「抱きしめてTONIGHT」は小学校の運動会の入場行進曲でした。
『田原俊彦』
36thシングル「ごめんよ涙」で同級生と創作ダンスを作ったこともありました。
『田原俊彦』
芸能界の事情とか全然分かりませんけど干されていた時は陰ながら心配していました。
『田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ』
そこには加害者も被害者も、それに付随する感情も存在しない
「お菓子を食べ過ぎたら太る」くらいのリアリズム
それはすなわち
諸行無常の響き
以上です。