なぜ冒頭ばかりが注目を浴びるのか。
吾輩は元ニートである。カメノセタロウです。
国語のテストやクイズ番組でよく目にする「~ではじまる文学作品名を答えよ」といった問題。なぜ冒頭ばかりが注目を浴びるのだろうか、もっと最後のほう、起承転結で言えば結に。作品の頭だけではなく、尻にも注目すべきではないのだろうか。
断然、尻派です。
例えば、冒頭の一節であれば、多くの文学作品を知っているだろう。一般常識レベルである。
吾輩は猫である。名前はまだない。
メロスは激怒した。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
春はあけぼの
ふと思いついたものを書いてみたが、案外少ないものである。世の中そんなもんである。あると思っていても無いのが金と記憶力である。さて、では末尾の一節はどうだろうか。記憶力を振り絞っていただきたい。
はい、一個も思い浮かびませんでした。びっくりするほど意外性もなく、一個も思い浮かびませんでした。いや、思い浮かぶ方がおかしくね?だって、基本的に読み終えないし。読み終えたとしても、読み終えた自分を褒めるのに忙しくて、末尾までしっかり読んでる余裕ないし。むしろ、本読まないし。
はじめだけが大切にされるこのような事例は文学作品だけに当てはまるものではない。
- 最初、7日間で世界を作った神様のその後知らない。
- 最初は奇麗に書かれたけど最後のページは判別不能、むしろ白紙のノート。
- 産まれた時には泣いて喜ばれた存在なのに、今では泣いて悲しまれる僕たち。
- 会話もなく、お互いにスマホを見て時間を潰すファミレスのカップル。
- デザインだけ凝って更新されぬまま放置されているブログ、サイト。
逆に最期が大事にされるのは金持ちの老人や、閉店セール、廃止される鉄道関係くらいのものである。
そんなわけで、文学作品の最後の一節を冒頭の一節とともにおさらいしてみたい。まずは、『吾輩は猫である』から。
吾輩は猫である。名前はまだない。
(中略)
吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
猫、死す。
ちなみに、この作品は私が最後まで読んだ数少ない作品のひとつで、当時も「おいおい、死ぬんかよ。しかもビールに酔っぱらって水死かよ」と思わず突っ込みを入れてしまった記憶がある。パロディ化された二次創作みたいな最後である。
次に、激怒したメロス君の顛末を追おう。
メロスは激怒した。
(中略)
勇者はひどく赤面した。
顔に血液多い系男子。
勇者=メロスである。なお、赤面した勇者は真っ裸状態ですので、フルチンで物語が終わります。そりゃ赤面しますわ。まあ、着る物を差し出されて赤面しているというシチュエーションなんですけどね。脱ぎかけとか着かけの方がエロいもんね、赤面する気持ち分かる分かるよ太宰さん。ちなみに、メロスが赤面する直前に
暴君ディオニスは(中略)顔を赤らめてこう言った。
という一文があります。皆さん、顔を赤くしすぎじゃないですかね。
お次は、川端康成で『雪国』
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
(中略)
踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。
良く分からんけどオシャレでズルい。
格の違いを見せつけている。冒頭と末尾を抜き出しただけなのに、文学を感じる。酔っぱらって水に落ちて死ぬ猫や、フルチン勇者とは違うんです、天の河が流れ落ちてくるんです。冷静に読んでみれば、この中では一番意味不明な文章なのだが、この文学感は何だろう。猫や勇者と比べて、一番のクズ男の島村なのに。あえて難を付けるとするならば、島村がファッションセンターしまむらを想起させることくらいだろうか。これで、作品名が『ユニクロ』なら完全無欠であったかもしれない。
国境の長いトンネルを抜けるとユニクロであった。
完全無欠
このように、名高い文学作品であっても、最後の一文を目にする機会はなかなかないのではないだろうか。今後、是非とも小説を読むときには、末尾にも注意を払ってあげてほしいものである。